自分の病気からオステオパシー③
さて、私の病気シリーズ3回目となりました
前回は、漢方医である故江部洋一郎先生の『養腎降濁湯』のところまででしたよね
それでは、漢方薬のお話に入りたいと思います
江部洋一郎先生の存在を知る前にも有名な漢方医の煎じ薬を飲んではいました
その時の一番の目的は、むくみ解消です
むくみと言っても健康な人が感じるものとは全く別物です
シリーズ②でも書いてありますが、とにかく立ってるだけで直ぐにむくみが酷くなり膝あたりまでむくんでくるのがわかると怖くなるんです、恐怖心が半端なかったです。
今思えば当然ですよね、その当時の私の腎機能はすでに70%ほど機能は失っている状態で何とか毒素を処理していると言った状態でした
腎機能の悪化によって心臓にも負担が掛かかり、カリウム値も少し高かったので心不全を起こす危険性もありましたね
その様な事を毎日考え不安と恐怖におびえながらの闘病生活は今となっては本当に良い経験をさせてもらったと思えます(勉強という意味でも)
話を戻し、煎じ薬は飲んでいたもののこれと言った症状の変化はあまりありませんでした
そんな時に江部洋一郎先生の存在を知り雑誌を購入し一通り読み終えた後、私の心は決まっていました
江部洋一郎先生の病院に行く、さっそく書いてある病院の番号に電話をし事情を話し、予約を取って頂きました
で、その江部洋一郎先生の病院は何処にあるかというと
京都府にあり、調べてみると山に囲まれた自然豊かなところにあります
その病院の名前は高雄病院といいます
それから数日後、私は何の迷いもなく京都の高雄病院に向かうのです
京都駅までは新幹線、そこから高雄病院まではバスで向かいました
初めのうちは京都の街並みを楽しみながら乗っていましたが
しばらくすると人が少なくなり自然豊かな山を登っていき
その山の途中に高雄病院がありました
正直、田舎でお世話辞にも近代的な病院とは言えませんでした
でもそんなことは私には全く関係ありません
ここにあの江部洋一郎先生がいるのか、と思うと早くお会いしたくてわくわくしていました。
そこは普通の総合病院なので受付を済ませ、尿検査、血液検査を行ってから診察と言った流れです
あの時、診察室前の長椅子に座り、期待と不安が入り混じった何とも言えない気持ちでいた事がついこないだの事のように思い出されます
名前が呼ばれいざ、診察が始まると腹診、脈診あたりまで覚えてますが後は記憶があいまいなので省略します、一つだけ鮮明に覚えているのが、カルテを習字の筆のようなもので書かれていたのを覚えています
漢方薬の名前を黄耆○○グラム、という流れで数種類の名前を筆で書かれていたので、なんかかっこよく見えましたね
先生から漢方薬の飲み方などの説明を聞き、診察が終わり会計を済ませ
今度は病院を出てすぐ隣の薬局で煎じ薬を受け取るのですが
その煎じ薬の量がこれまでの煎じ薬の倍くらいはあり、約1か月分の煎じ薬はボストンバックがパンパンになるくらいのもので、私はそのパンパンになったボストンバックを抱え再び山から京都駅までのバスに揺られて帰りました
それからの日々私の闘病生活のスタイルが確立され
食事は同じく玄米、豆腐、ジャガイモ、青汁を1日2回のみ
それに江部洋一郎先生の『養腎降濁湯』を1日2回
西式健康法の体操を日々行うというものになっていきました
実際にその『養腎降濁湯』を飲んで1か月後、京都の高雄病院にて血液検査を行ったところ、腎臓の機能を表す、クレアチニンという数値がなんと下がっていたのです
初めて腎不全と診断されたときのクレアチニン値は3
高雄病院での初診時は3 二回目の検査では2と下がっていました
腎臓の機能を表すクレアチニンという値は通常ですとそんなに動くものではありません
1上下するのはすごい事なのです
これまで行ってきた治療法のなかでこれほど結果が表れたものはなかったので私の気持ちも前向きになり一筋の光が見えた気がしました
このパターンをしばらく継続し私は毎月京都まで行き診察を受け続け
そして、この食事療法と江部洋一郎先生の漢方薬でこの困難を乗り切れるのではないかと考えた私は、ついに仕事に復帰する決意を固めるのです
そのお話の続きはシリーズ④でお話します、これから先のシリーズで私のこの闘病生活を大きく変える出来事が起こります。それから私のオステオパシー人生へと繋がっていくのでここまで読んでくださった方々にはどうぞ最後までお付き合いして頂けると幸いです。
この記事へのコメントはありません。